彼女に興味を持ったきっかけは、学校のトイレでの、ある出来事だった。
俗に五月病と呼ばれる症状が発生しやすいとされる若葉の頃。
昼休みの後、次の講義まで丸々一限分時間が空いていた私は、次の講義が行われる教室のフロアまで移動した。
そして、その時間帯に講義が行われていない空き教室のひとつに忍び込み、読書をしていた。
小さめなその教室内にも廊下にも人影はまるで無く、しんと静まり返って快適だった。
しばらく読書に集中し、あと20分くらいで次の講義、という頃、微かな尿意を覚え、講義前にトイレをすませてしまうことにした。
開け放したままの出入り口ドアに一番近い席に座っていた私は、読みかけの本に栞をはさみ、立ち上がった。
愛用のバッグを肩に提げ、引いた椅子は戻さずに廊下へ出た。
用を足したらここに戻り、もう少しだけ読書をするつもりだった。
使用されていない教室は、出入り口ドアを開け放したままにしておくことが学校の規則となっているので、ドアもそのまま。
そのドアのほぼ真向かいがトイレの入口ドアだった。
女子トイレ、女子大なので校内のほとんどのトイレが女子トイレなのだが、には誰の姿も無く、5つ並んだ個室のうち一番奥の個室だけドアが閉ざされていた。
使用中の個室から一番離れた、出入口ドアに最も近い個室にこもり、腰を下ろした。
微かな尿意は、なかなか実体化せず、なかなか出てこない。
だけど、次の講義終了まで持ち越すのは気持ち悪いので、気長に待つことにした。
さっきまで読んでいた本があと数ページで終わることを思い出し、下着を下ろしたままその本を広げて読み始めた。
そのとき。
「んぅふぅっ・・・」
誰かが入っているのであろう一番奥の個室のほうから、くぐもった、押し殺したような声が微かに聞こえた気がした。
きっと難産なのだろう、お疲れさま。
たいして気にも留めず、再び活字に視線を落とした、
すると再び。
「ぁふうぅ・・・」
さっきより明確に、せつなげな吐息が聞こえてきた。
「んふぅぅぅっ・・・」
排泄行為に伴うそれとは明らかに異なる、ある種の息遣い。
この手の鼻にかかった呻き声には心当たりがふたつある。
意図を持って押し殺しているにも関わらず、喉の奥から漏れてしまう、妙に艶っぽい扇情的な吐息。
ひとつは、何かしら悲しいことでもあって、個室で人知れず涙に暮れている、その押し殺した嗚咽。
もうひとつは、こっそりと何か性的な行為で高揚している、そのひそやかな愉悦。
そこまで考えたとき、自分の排尿が始まった。
静まり返った個室にチョロチョロという水音が響き、案の定、数秒で出尽くした。
洗浄して下着を上げ、いざ流そうとしたとき、ふと考えた。
ここで勢い良く水を流せば、奥にこもっている彼女は、数十秒前に漏らした呻き声を誰かに聞かれたことに気づくだろう。
そして、それは彼女にとって、とても恥ずかしいことなのではないか、と。
だがすぐに、そんな気遣いは何の意味も無い、という結論に達した。
私には、奥の個室の彼女が、その中で泣いていようが、あるいは自分を慰めていようが、まったく関係の無いこと。
彼女だって、私がさっさと出て行ってしまえば、安心することだろう。
私がすべきことは、何も無かったようにここを出て空き教室に戻り、あと数ページの本を読み終えてしまうことだ。
普通に大きな音をたてて水を流し、普通に個室のドアを開けた。
あれから一度も声は聞こえてこない。
手を洗いながら奥の個室を見ると、相変わらずぴったりと閉ざされたままだった。
廊下へと出るとき、私と入れ違いにひとりの学生がトイレに駆け込んでいった。
可哀相に、奥の個室の彼女、誰にも邪魔されずゆっくりひとりになりたくて個室にこもったのだろうに。
切羽詰っているふうな学生の後姿を見送ってそんなふうに思ったとき、ふと小さな好奇心が湧き出てきた。
携帯を見ると、次の講義まであと約10分。
そろそろ現在進行形の講義終了チャイムが鳴る頃だ。
そのあいだに奥の個室の彼女が出てくるか、待ってみようか。
あんな艶っぽい呻き声を出す彼女が、どんな顔をしているのか、見てみるのも面白いかも。
行かなければならない教室は、このフロアの一番端で、ものの数秒でたどり着ける。
ひとまず空き教室に戻り、元いた席に座って本を開いた。
この席からなら、少し首を右斜め後ろに捻って窺えば、背後にある開け放しの出入り口ドアから、トイレ入口ドアの閉開は確認出来る。
なんだか探偵みたいだな、なんて考えたとき、講義終了のチャイムが鳴った。
休み時間となり、廊下が騒がしくなっていた。
教室移動の人たちが廊下や階段を行き来し、いくつかの教室を出たり入ったり。
高めなトーンの嬌声がざわざわとフロア内を満たしている。
幸いこの小さめな教室は、次の講義でも使われないらしく、誰も入ってこない。
読書しているフリをしながら、トイレの入口ドアを監視しつづけた。
そのあいだ、私と入れ違いになった学生も含めて5人の学生がトイレに入り、それぞれ数分の間を置いて全員出てきていた。
服装を全部憶えて確認していたので、間違いは無い。
奥の個室は、まだ閉じたままなのだろうか。
そうであるなら、彼女がいつ個室に入ったのかは知らないが、少なくとも20分近くは、奥の個室にこもっていることになる。
講義の時間が迫り、どうしようか迷った。
すでに廊下に人はまばら、隣の教室からは、女子集団独特の華やかながらやや品に欠ける喧騒が聞こえていた。
奥の個室の彼女は、次の講義も出ないつもりなのだろうか。
考えていたら講義開始のチャイムが鳴り始めた。
今なら廊下を走ればぎりぎり間に合う。
どうしよう。
結局私は、チャイムが鳴り終わり、フロアに再び静寂が戻った後も、トイレの入口ドアを見つめていた。
単位集めの滑り止めで取った選択科目だし、ま、いいか、と自分を納得させた。
それよりも、20分以上トイレにこもったままの彼女のほうが気にかかった。
ひょっとして急な病気か何かで苦しんでいて、動けないのではないだろうか。
そんな嫌な予感も生まれていた。
私が受けるはずの講義が始まってから、早くも5分近く経った。
奥の個室の彼女は、一体何をしているのだろう。
もう一度トイレに入って、思い切って声をかけてみようか。
もはや完全にからだをトイレの入口ドアに向けて睨みつつ逡巡していると、そのドアがゆっくりと内側に動き始めた。
あわてて背を向け、読書をしているフリをする。
うつむきながらも首を少し右に曲げて横目で観察していると、トイレのドアは、じれったくなるようなスピードで内側に開いていった。
開き切る寸前、唐突にドアの陰から、マンガなら絶対に、ひょい、という擬音が添えられる感じで、首から上の小さな顔が空間に現われ、その顔が不安そうに廊下の左右をきょろきょろ見回した。
それはまるで、安っぽいテレビドラマにありがちな、不審者、の行動そのもので、私は思わず苦笑いしてしまった。
同時に、その顔を見て驚いた。
その不審者は、廊下に人影ひとつも無いことに安心したようで、素早く廊下に躍り出た。
シンプルな茶系のブレザーにえんじ色の膝丈チェックスカート。
白いフリルブラウスと三つ折ソックス、そして焦げ茶のタッセルローファー。
この、いまだに女子高生のようなファッションに身を包んだふんわりミディヘアーの彼女に、私は見覚えがあった。
廊下に出てからの彼女の行動は素早かった。
空き教室の開けっ放しのドアから、私の背中が見えたのだろう、一瞬ギョッとしたように立ち止まってからガクンとうつむいて、ささっと階段の方向へ消えた。
彼女が視界から消えると私も素早く立ち上がり、出入り口ドアの陰から彼女の姿を目で追った。
彼女の背中は、無人の廊下を小走りに校舎突き当たりの階段方向へと小さくなり、そのまま右に折れて階段を下りていく。
そこまで見送ってから廊下に出て、再びトイレの入口ドアを開いた。
5つある個室は、すべてドアが内側へと開いている。
すなわち、ここには私ひとりきり。
まっすぐに一番奥の個室へ向かう。
別におかしなところは無い。
床にも便器にも汚れは無く、いたって普通。
ここで何が行われていたのかを教えてくれるような形跡は、何も残っていなかった。
ただ、微かにフローラル系パフュームの残り香が漂っているような気がした。
講義をひとつ無駄にしてしまった自分の行動に苦笑しながら空き教室に戻り、最後の数ページとなった小説に没頭することにした。
*
*彼女がくれた片想い 02へ
*
イネです。お久しぶりです・・・って、毎日、必ずお邪魔していますけどね(^^
返信削除新しいおはなしですね。
そうですか、他人の目から見たナオちゃん(←失礼?)ですね。
もちろん、個室にこもってナニヤラしていた「彼女」がナオちゃんですよね?
確かに今まで、ファッションなど自己紹介風のはいくつかありましたけど、第三者から見たナオちゃんの描写は、初めてです。スッゴク新鮮(嬉
このお話は大学に入ってすぐの5月ころ・・・ってことは「独り暮らしと私」より以前のことですね。
ナオちゃんが大人になっていく過程を、(ナオちゃんファンとしては)楽しみにしております。
ますますのご活躍、期待しております。
イネさま
返信削除お世話になっております。コメントありがとうございます。
このお話は、あと2話分くらいしかアイデアを思いついていないので、どうなることやら、と心配ですが、まったりつづけていきたいと思っています。
柘榴石のほうが、まだまだ終わりが見えてこない状態なので、当分こちらをがんばります。
毎日いらしてくれているとのこと、とても嬉しいです。これからもよろしくお願いいたします。